フェルデンクライスメソッドは、体の動き通じて能力を引き出す「学習」の方法です。
運動感覚による学習
人間が成長過程で、動きを学び、そして動きを通してあらゆることを学ぶシステム—-そのシステムに基づいて開発されたのがフェルデンクラスメソッドです。
フェルデンクライスメソッドの2つの方法
個人レッスン(Functional Integration:FI 機能の統合)
グループレッスン(Awareness through Movement:ATM 動きを通しての気づき)
どちらのレッスンの場合も、「楽に」「心地よく」「ゆっくり」という形容があてはまるシンプルな心地よい動きが基本。「動きと感覚」に注意を向けることで、機能的で効率のよい動きをを学んでいきます。
私達の習慣的な体の動きが、どれほどパターン化し硬直化しているか気づき、本来持っている、ダイナミックで、優雅で、無駄のない動きをする能力を再開発していきます。
この学習の過程で得られる「気づき」は、単に動きを良くすることに留まらず、自己イメージを現実化していく働きもあります。
「不可能なことを可能に、可能なことをより簡単に、簡単なことをより優雅に」
「最小の努力で最大の効率的な動きをするためには、筋肉の力ではなく、どのように身体が動くかを組織化することである。」モシェ・フェルデンクライス
Moshé Pinchas Feldenkrais (May 6, 1904 – July 1, 1984)
1904年 ウクライナのSlavutaという町で生まれる。
1918年 パレスチナに移住するために家族と別れ、ベラルーシのバラノヴィチに住む。
1925年 肉体労働をしながら高校を卒業する。高校卒業後は英国系の調査事務所で地図製作者として働く。
パレスチナにいる間に、柔術を含む護身術の研究を始める。
1929年 サッカーで膝に大怪我をする。これが後々彼のメソッドを発展させることにつなる。
1930年代 パリで工学系の学校を卒業し、その後ソルボンヌ大学で工学の博士号を得る(この時、マリー・キュリーに教えを受ける)
その後、ラジウム研究所で研究助手として働く。
※キュリー一家は歴史に名前をとどろかせています。
マリーが物理学賞と化学賞、夫ピエールが物理学賞、娘夫婦(イレーヌ・ジョリオ=キュリーとフレデリック・ジョリオ=キュリー)がそれぞれ化学賞を得ています。
娘夫婦が化学賞を受賞したのが1935年であり、その時期にフェルデンクライスは研究助手として働いていたということです。
1933年 日本の柔道家、加納治五郎に出会います。
1936年 柔道で黒帯を得る。これはフランスでの黒帯第一号。1938年に2段になる。
※モーシェは今日まで続くフランスの柔道連盟の設立メンバーの一人です。
1940年 ドイツ軍がパリに達しようとしていた頃、イギリスに渡り、「重水」と研究資料を英国軍事事務所に引き渡す。 ※重水は原子炉の減速材として使われる。
※この時期に護身術(武器を持った相手に対して、素手で闘う)に関する著書を出版する。
「Practical Unarmed Combat」
London: Fre
derick Warne & Co., 1941. Revised edition 1944, 1967 (絶版).
※モシェ自身が銃剣を持った敵を組み伏せている表紙の写真が印象的。軍服姿のモーシェの写真が多数掲載されています。
「Judo: The Art of Defense and Attack」
New York and London: Frederick Warne & Co., 1944, 1967 (絶版).
※技の説明に力学的な解説が入っていたりして、さすがに物理学者と思わせる内容です。
1946年まで、スコットランドで対潜水艦の兵器研究の科学担当者としてソナーの改良についていくつかの特許を取る業績を上げる。
同時に同僚の軍人に護身術を教えることも行う。
しかし、潜水艦の滑りやすい甲板で、サッカーで痛めた膝の古傷を再び悪化させる。
医師には再び運動ができるようになるのは難しいと言われ、手術を勧められるが、彼は手術を拒否して、自ら治す試みをしようと決意します。時には何週間もベッドにくくりつけられることもありました。彼はある特定の動きが彼の状態を悪化させたことを知っていましたが、断片的に知っていただけでした。しかし彼は、気づきの無い動きが再び怪我をさせる要因になっているのに違いないし、十分に気づきを発展させたなら、それを修正することができるに違いないと感じました。
彼はベッドに横たわり、小さな動きを実験しました。そして小さな動きで彼は体のすべてパーツの間に無意識的な微妙なつながりを感じることができるようにしました。彼は生物学と神経科学を研究しました。それは物理学で学んだこと、柔道から学んだことを補うものでした。このようにして、フェルデンクライスは自分の動きの癖を再教育し、効率的に楽に歩くことを学びました。彼はそのプロセスで、学ぶプロセス自体を学びました。それは後にメソッドとして発展していくものとなります。
彼は自分の発見したことを他の人とシェアし始めます。それは、講義、実験的なクラス、一対一のワークを通して行われました。
海軍事務所を退職し、ロンドンで民間で働きます。そして自分でリハビリしたことで、柔道の練習が出来るようになりました。
国際柔道委員会の地位から、科学的に柔道を研究し始めます。そこでは彼が自分でリハビリを行ってきたことを通して得た知識が生かされました。
1949年 フェルデンクライス・メソッドに関する最初の著作「体と成熟した行動:不安、セックス、重力、学習に関する研究」Body and Mature Behavior: A Study of Anxiety, Sex, Gravitation and Learning.が出版されます。
この時期に、 G.I.グルジェフ、F. M.アレクサンダー、エルザ・ギンドラー、ウィリアム・ベイツなどのワークについて研究します。そしてスイスに渡りハインリッヒ・ヤコビーと研究をします。
1951~1953年 フェルデンクライスはイスラエル軍のエレクトロニクス関連を指導するためにイスラエルに帰国します。
1954年頃、テルアビブに定住し、初めてフェルデンクライス・メソッドを教えることだけで生計を立てました。ロンドンで書き始めていた「The Potent Self」の執筆は散発的に行うようになります。
1955年頃、アレクサンダー・ヤナイ通りのスタジオでアウェアネス・スルー・ムーブメントのクラスを常時開くようになります。ファンクショナル・ムーブメントのレッスンは母と兄弟の住むアパートで行いました。
1957年始めに イスラエル首相のデビッド・ベン・グリオンにレッスンを行い始めます。ベングリオンが頭で逆立ちする写真は有名になりました。
1960年代から1970年代、そして1980年代に入るまで、フェルデンクライスメソッドをヨーロッパ、北米に紹介します。
(1972年にはエサレン研究所でヒューマン・ポテンシャルのトレーニングでアウェアネス・スルー・ムーブメントを行います。)
自分の代わりになるティーチャーを養成することを始めます。
1969~1971年テルアビブで最初の13人のティーチャーのグループをトレーニングします。
1975~1978年、サンフランシスコで65人のティーチャーを養成します。
1980年 マサチューセッツ州のアマーストで235人の生徒がティーチャートレーニングコースを始めます。しかし、1981年、彼は病気のためそれを最後まで続けることが出来きなくなりました。
3年に渡って何度も起こった卒中から自分でリハビリを行い、それは彼が故郷のテルアビブで亡くなるまで続けられました。
今日では、フェルデンクライスのプラクティショナーは2000名以上となり、世界中で教えています。

